2024年11月24日 降臨節前主日(B年)

 

司祭 ダニエル 鈴木恵一

 教会の暦は1年間の最後の主日、降臨節前主日を迎えました。聖霊降臨後の緑の期節。わたしたちはイエスさまのエルサレムへの旅をたどってきました。1年の締めくくりに選ばれている出来事は、エルサレムでの出来事です。イエスさまは逮捕され、ローマの総督ピラトから尋問されています。一方で今日の特祷で、わたしたちはイエスさまを王の王、主の主とよんで、あらゆるもの回復を祈ります。王さまが逮捕されるとはいったいどういうことでしょうか。一般的な感覚では世界が変わってしまうような大きな事件です。
 さて、カトリック教会ではこの降臨節前主日を「王であるキリスト」と呼んでいます。日本聖公会でも、以前に「聖霊降臨後最終主日 キリストによる回復」と この主日を呼ぶ試みがされました。教会がイエスさまを王とよぶこと。それは、人間の社会の中で言われる王とはちがいます。そのちがいは、今日読まれた福音書(ヨハネによる福音書18:31−37)の、イエスさまとローマの総督ピラトが交わした言葉の食い違いにも見ることができます。
 人を力によって支配する王や皇帝と、イエスさまの伝えようとした神の国の違いがここにあります。イエスさまはローマ総督ピラトによって、十字架刑に処せられることに決まりました。その罪状は「ユダヤ人の王」というものでした。これは「ローマ帝国に対する反逆者」という意味です。イエスさまは神の国や天の国をさして「わたしの国」と言う言い方をしますから、ピラトは「それでは、やはり王なのか」と問い詰めます。古代では王のいない国というのは考えられないものでした。王の支配の力がおよぶところが国となります。ですから、神の国や天の国というのは神さまの思いが実現している所ということです。ピラトの関心はイエスさまがユダヤ人の王なのかどうか反逆者かどうかということにありました。
 一方でイエスさまは、わたしの国はこの世には属していないと答えられています。イエスさまご自身が言われていますが、イエスさまが目指しているのが、政治的な意味での王ならば、逮捕の時、部下たちが立ち上がって、武器でイエスさまを守ろうとしたはずなのに、実際にはあまりにも簡単に逮捕されてしまいました。それは、死にも繋がることであるはずの出来事です。イエスさまの身を守るために弟子たちが戦うというのは、この世の原理です。そしてこれは力の原理です。でもイエスさまは「真理について証しする」ために、イエスさまの王国は、人間の力ではないものに根拠を置きます。「神が愛であること」、この真理はイエスさまの生涯全体を通して示されました。そして、最終的にそのことが誰の目にも明らかになる、とわたしたちは待ち望んでいます。「イエスさまが王となる」ということは「神さまの愛・イエスさまの愛がすべてにおいて実現する。」ことにあります。わたしたちも、イエスさまの訪れに希望を置いていきましょう。